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『菅江真澄全集 第2巻』(未来社, 1971). pp.31,32
日のさしのぼりて、舟はとぶやうに熊石(爾志郡熊石町)などいふ浦もこぎ過て、
和人と蝦夷のくにをさかふ以南遠ざきとて、
とどろふの木(トドマツ)を伐て枝ながら岩の出崎におし立て、為那乎とて、木を麻苧の糸のやうにけづりてて、ゆふ(木綿)のごとくとりかけたるは、
鯡の魚多からんことを、このいそべなる神にいのりて、夷人どもの、春のはじめごとに手向けるとなん。
‥‥‥
ほどなうふねつきたれば、くだりて久刀布(久遠郡大成村)といふ蝦夷の地に至る。
このあたりよりはもはら運上屋とて、うなのものとりをさむる、さぶらひやうの屋形をたてて、そのゑだちの人も、こと人もすみ、アヰノの栖家も、軒ならびて入まじりたり。
斎藤といふあまのもとにやどつきたり。
このちかとなりに笹ふきのまろやのありけるより、童男どものふたり、くひぜのごときものを持出て、かうがいつきといふことをして、右にうち左にうちて、はてはては、ものあらがひのごとく、たがひにいひのゝしるを、
そが母ならん窓よりたちのぞきて、「ホンノペリ」、「ルカマルカマ」とよぶ。
ルカマとは、路をよこさまにあゆむをしかいへり。
ポンノペリも、そのごとき人の身の癖などをもて、名とぞせりけるならはしとなん。
ことやどよりたちいづる蝦夷の、としははたちばかりならんか、リクトンべといふものをくびにかけ、マタブシとて、はちまきゃうのものを頭にまとひ、ものうちさへぐやうに過たり。
タけぶりたちなびくに、「おくの海夷がいはやのけぶりだにおもへばなびく風や吹らん」とずして、
蝦夷人の 立るけぶりの 末までも にぎはひなびく 御代のかしこさ
それらが軒のあたりに庫といひ、シャモ辞に多加久良 (高庫) といふ、間遠に柱つきたて、棚のやうに横木をならべて、そのうへにかや、小笹などふきかさねたる、ちいさき屋をつくりあげて、粟、稗、たら、にしん、さけなどのほじしをも、こめおくとなん。
やごとやごとのくまわにぞありける。
ヘカチどものあつまりて、虎杖の茎の一さか斗なるを投やりて、ひろばかりの,しのゝうれを箭はづに、とがりたるを手ごとにとりて、このくさぐきを、なげつきにつきけるこそ、うなのわざを見ならひてせりけるならめ。
これを波那離づきとぞいひける。
ゆくりなう雨のさとふりくるに、鹿のかは衣きたるへカチふたり三たり、こなたかなたに草かい分ていぬ。
かはごろも わけぬらすらし いたどりの 葉ひろの露の ちればなりけり
かくて、けふもくらぐらになりぬ。
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