Up | はじめに | 作成: 2018-05-08 更新: 2018-07-12 |
哲学でやると,戯れ言になる。 なぜか。 教養が無い 要諦は,科学に 科学を以て哲学を退ける。 先ず考えるべきは,《問い「なぜ わたしは わたしなのか」は,どんな存在が発するものであるか?》である。 「なぜ わたしは わたしなのか」の問いの理由は,<わたし>の出現が不思議だからである。 よって,<わたし>を現し,さらにその上で「わたし」を措定する存在が,「なぜ わたしは わたしなのか」の問いを発する存在である。 <わたし>を現す存在は,端的に「動物」である。 「わたし」を措定する存在は,「わたし」ということばをもった存在であり,現時点では「ヒト」である。 「<わたし>を現す存在は,動物である」とは? 植物と動物を分かつものは,中枢神経系──「脳」──の存在である。 動物の<生きる>には,脳が命ずる<動く>が有る。 植物には,中枢が無い。植物の<生きる>は,化学反応系の化学変化に似ている。 これより,<わたし>の意味を単純に考えることができる。 自分のカラダに命令するものが<わたし>であり,そしてそれは脳の機能である。 こうして,<わたし>を現す存在は,「動物」である。 ミミズは,<わたし>を現す。 一方,「なぜ わたしは わたしなのか」の問いとは,無縁である。 ひとは,「わたし」のことばをもつ。 「わたし」のことばは,ひとに<わたし>を対自化させる。 併せて,いま存在し,そしてこれまで存在したすべての個が,同じく<わたし>である,ということを認識させる。 そしてこのとき,自分の<わたし>は,他の<わたし>とは区別される特別な<わたし>になる。 そこで,「なぜ わたしは わたしなのか」の問いが立つ。 問題は,ここからである。 なぜ わたしは わたしなのか? 「なぜ わたしは わたしなのか」は,どう考えることができるのか,見当もつかない。 そこで先ず,この問いの定位を課題にする。 そのために,<わたし>の存在的意味の論考から始めるとする。 この作業に,「なぜ わたしは このわたしなのか」の答えへのヒントが現れることを,はかなく当て込むというわけである。 |