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Ennos (2020), pp.62-64
食物を調理するには、その動物が生きていたときの体温よりもずっと高い温度にして構造材をばらばらにする。
肉の場合、構造材の中でもっとも重要なのは長い鎖状のたんぱく質であるコラーゲンで、そのロープのような分子が組み合わさってシー卜状になった筋膜が筋細胞を取り囲んで構造を支えている。
生肉のつなぎ目にあるスジはその筋膜でできていて、生きていたときには、筋細胞が生み出した力を筋肉の端から伸びる腱に伝える役割を果たしていた。
肉を加熱するとこのコラーゲン分子が分解して筋膜が弱くなり、肉が軟らかくなる。
とくにシチュー用の肉など硬くて安い肉は、筋線維が細くてスジが多いため、加熱して軟らかくする。
ヒレやランプなど、もっと高い肉にあまり火を入れなくていいのは、筋線維が大きくてコラーゲンが少ないからだ。
植物も調理することで軟らかくなる。
細胞壁どうしを接着させているペクチンが分解するとともに、細胞壁の中でセルロース繊維を束ねているへミセルロースが弱くなる。
しかし熱だけではセルロース繊維も分解されないし、木の細胞の細胞壁からリグニンが失われることもない。
そのため、草や熟れすぎた豆に含まれる筋張った繊維は、どんなに長時間調理しても軟らかくはならい。
調理によって食物を力学的に分解することには、大きなメリットがある。
食物の剛性と靭性が大幅に下がり、力学的な処理がはるかに容易になるのだ。
食物をばらばらにするために歯にかける力も小さくなるし、食物の細胞の中身もずっと簡単に出てくるようになる。
食物をばらばらにするうえで最適な歯の形も変わってくる。
太くて平らな板状の歯に大きな力をかけて、切れにくい食物をすりつぶしたり硬い食物を割ったりするよりも、咬頭の突き出した大臼歯で軟らかい食物を噛み砕くほうが望ましい。
力もはるかに弱くて済むし、はるかに短い時間でばらばらになる。
現代の狩猟採集民が食物を噛んでいる時間は一日一時間にも満たず、比較的軟らかい果実を食べる類人猿の五〜六時間よりもはるかに短い。
これによって、火の番をしたり定住式の宿営地を築いたり、道具を作ったりさらに食物を探したりするなど、ほかの作業に充てられる時間がかなり増える。
しかし、食物を調理することで起こる変化の中でさらに重要なのは、化学的な分解である。
現代のヒトで調べたところ、生の食物から吸収できるエネルギーが60パーセントであるのに対し、調理した食物では80パーセントと、はるかに多くのエネルギーを吸収できることがわかっている。
しかも調理することで、食物の消化に必要なエネルギーは約12パーセント少なくなり、消化にかかる時間は半分になる。
初期のヒト族では、食物を調理できる個体のほうがうまく生きのびることができて、若いうちから繁殖でき、集団を大きくすることができただろう。
短時間で効率的に消化できれば、腹部を大きくする必要がなくなって、繁殖や大きな脳の維持にエネルギーを振り向けられる。
葉を食べるサルよりも果実食のサルのほうが脳を大きくできるのと同じように、食物を調理していたヒ卜族は、生の食物を食べつづけていた個体よりも大きな脳を維持できただろう。
調理をすることのメリットを知るには、生の食物しか食べない健康マニアの身体に何が起こるかを見るのがいちばんかもしれない。
生食主義者は、食物を呑み込む前にいくら念入りに噛みつぶしたところで、消化にいくつもの問題を抱え、決まって体重を減らして体調を悪くする。
一般的に、男性で約20キログラム、女性で約25キログラムも体重が減るし、生殖可能な女性の半数以上で生理が止まり、明らかに健康を損なう。
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- 引用文献
- Ennos, Roland (2020) : The Age of Wood ── Our most useful material and the construction of civilization.
- Scribner, 2020.
- 水谷淳[訳]『「木」から辿る人類史 ヒトの進化と繁栄の秘密に迫る』, NHK出版, 2021.
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