Up イタカ/イタコ 作成: 2025-01-14
更新: 2025-01-14


      柳田国男 (1911)
     ‥‥‥ よりて思うにイタカは鉦打(かねうち)または鉢叩(はちたたき)などと同じく、半僧半俗の物貰(ものもらい)にて仏教の民間信仰に拠りて生を営む一種類にはあらざるか。
    これよりすこしくこの問題を攷究こうきゅうせんと欲す。

     イタカの初見はいずれの時代にや。
    ただ今知れる限りにては、『看聞御記(かんもんぎょうき)』応永二十三 (1416) 年七月十六日以降数箇所の記事に阿波ノ法師と称する者あり、その徒とともに山城桂地蔵(やましろかつらじぞう)の霊験を仮托(かたく)して人を欺き財を貪りついに召し捕られたることあり。
    この僧実は阿波国住人にはあらずある者これを罵りてイタカめと呼びしこと見ゆといえり。‥‥‥

    [イタカに] 充てたる文字は一様ならず。
    『節用集』には居鷹者とあり。
    『運歩色葉抄』には為多加、移多家などともあり。
    また似仏百面者ともあり。
    最後の百面者はイタカの性質を明らかにするためには、重要なる鍵ならんもいまだ説を得ず。

    『新編相模国風土記』によれば小田原町古新宿に住する神事舞大夫(じんじまいだゆう)十郎大夫なる者は、以前伊豆北条の四日町に住し、小田原北条家の特別の保護を受けたる旧家なり。
    この家は浅草の田村八大夫由緒書にも見え、江戸幕府初期における関東巫覡(ふげき)の管長なりき。
    所蔵の古文書というを見るに、まず大永八 (1528) 年の下文(くだしぶみ)には舞々(まいまい)イタカ陰陽方より役銭取るべきものなり云々とあり。
    次に天文二十四 (1555) 年永禄九年天正三年同十四年等の文書には、「致卜算 移他家 唱門師(しょもじ) の類は大永八年の証文の旨に任せ舞々の下にこれを附け(おわん)ぬと見ゆ」。
    右の致卜算はおそらくは「ウラヤサンヲイタス」と読むべく、移他家及び唱門師はともに卜占を業とし村々を廻りし者にして、戦国時代には往々これを細作間諜(さいさくかんちょう)に利用する者ありしより、信用ある土着の舞々大夫をしてこれを支配せしむるの必要ありしなるべし。
    同家文書の中にも「自今以後堅く相改め不審の者あらば申し上ぐべし」などとも見ゆ。

     イタカという呼称の行われしは、少なくも西京附近にてやは存じのほか短期にして近代はもちろん()みてあり。
    上方にていう「クチヨセ」または「タタキミコ」は関東にてこれを「イチコ」といえり。
    イタカとイチコとは語原を同じくするらしく、かつ両者相似の点多きこと次に述ぶるがごとくなれど、彼をもってこの転訛(てんか)と断ずるは不可なり。
    イチコという語は古くより存す。
    『吾妻鏡』巻二 治承五 (1181) 年七月八日の条に「相模国大庭御厨(みくりや)の[がんだれ+寺]の一古娘召により参上す」とあり。
    この一古はすなわちイチコなり。
    [がんだれ+寺]は「カンダチ」すなわち神館にして巫覡(ふげき)の居処、支那にて言わば道観などに当るべし。

     奥羽にては近代までイタカあり。
    『新編会津風土記』若松城下の条に曰く。
    イタカ町。今もこの町の者をばイタカと称し他の商売と混ぜず。
    常は飴を煉りてこれを(ひさ)ぎ、年の始めに(えぴす)鍾馗(しようき)、昆沙門などの画像を城下及び村里の家々に配りかつ祝詞(のりと)を唱う。
    その(ことば)の中に 「かほど目出たき御大黒祝い申し候ては、戸に立てばキチョウテン護りの御経に疑いなし、棟に押しては火伏(ひぷせ)となり舟の中にては云々」 ということあり。
    また「常陸国志」には会津の人佐藤忠満の言を引きイタカは大黒の神像を配り大神楽(だいかぐら)を業とすといえり。
    いずれにしてもその業体の唱門師または大黒舞の徒とよく似たるは争うべからず。

     活版本『和訓栞(わくんのしおり)』の頭書には同じき佐藤忠満の説として左のごとく記せり。
    会津にイタカという種類の民あり。
    公役として城中を始め処々の草を刈らするなり。
    平民と同火を忌むことはなけれども良と混ずることなし。
    ただし穢多は別にまた一種あり云々。

     会津のイタカの家に蔵する寛永年中の古文書あり。
    上銭受取りの証文にして宛名を「エビス大夫中旨?」と記せり。
    エビスという賎民は常陸にも住す。
    水戸の台町にその部落あり。
    竈神(かまどがみ)または夷神(えびすがみ)の神像を配るを業とす。
    鹿島の宮中村にもエビス十戸ほどあり。
    近世に至るまで人(いやしみ)て通婚せず。
    良と軒を並ぶあたわず、すべて町のはずれに住居す。
    また足黒村に住する者あり。
    新安手簡によれば金砂山の田楽の徒もまたこれをエビスと称するよし。
    以上は『新編常陸国志』に見ゆ。
    この徒をエビスと称するは、戎神(えびすがみ)の神像を配るがためにして、大黒舞というもまた舞々の大黒像を配るゆえの名なると同じかるべく、蝦夷のエビスとは直接の関係なきならん。
    会津のエビス大夫もイタカの旧称にはあらずして二称兼用なるべしと信ず。

     会津のイタカは口寄せの業をなさざるがごとし。
    これを業とする者は別にこれを「ワカ」といえり。
    今日にでも福島県にては一般にこれをワカと称す。
    ワカはすなわち若神子(わかみこ) なり。
    若神子は若宮という語と同じく、巫覡は神の血統上の子孫なるゆえに、常人よりは一段神に近く神意を仲介するに適すと信ぜし思想に基づきたる名称なり。
    これは主として婦人の職業にして、単にミコともいいまた梓神子(あずさみこと)とも称す。
    梓は古き語なり。
    あるいはまた大弓ともいう。
    梓の弓を手にして神霊の言を伝うればなり。
    口寄せという語は最も古く、すでに『台記』の久寿二 (1155) 年八月二十七日の条に見ゆといえり。

     梓神子、若神子はイタカとは一見関係なきがごときも、東国において通例これをイチコと称すること年久しく、かつイチコとイタカと二語の相近似することを考うれば、しかく単純にこれを看過することあたわず。
    前掲『常陸国志』にこの者を「モリコ」と呼び、または大市小市などと称することを記し、その次に曰わく『東遊雑記』によれば津軽にては婦人の神を祭る者を「イタコ」と呼べり、市子の(なまり)なるべし。
    そのイタコは「オシナ」または「オシラ」と称し、桑の木にて作れる棒に絹布など被せて、幣帛(へいはく)のごとくなしたるを神明として祀ることあり。
    イタコの神を祭るを遊ばすという。
    しこうして常陸などにて市子をモリコというもまた守護の義なるべし云々。

     奥州のイタコのイタカと同じ語なるべきは、ほとんど説明を要せず。
    イタコと称する婦人は今日も岩手・青森・秋田の三県などに多く存す。
    『青森県方言訛語』(明治四十年出版) に巫女(ふじょ)のことを津軽にてはイダコ、南部にてはイタコというとあり。‥‥‥

     東北のイタコについてはいまだ十分の報告を得ざれども、口寄せをもって主たる職業となすこと、東京辺のイチコと同じくなおト占をもなすがごとし。
    外南部(そとなんぷ)大畑の人堺忠七氏曰わく、イタコという女子は、数珠の玉を数えて占いをなす。
    若き頃身の上を占問うらどいしに、御身は数珠の玉にも乗らぬほど遠き処より妻を娶めとるなるべしといいしが、果してその言のごとし云々。

     陸中遠野の人佐々木繁氏曰わくイタコが神を降おろす時の辞は常に定れり。
    「アヤ、中々心掛ケテ大願カナ、心尽シノ梓カナ、梓ニ呼バレテ物語スル」云々。
    この詞は説調に相異はあらんもほとんど梓神子イチコの文句と同じきなり。
    また曰わく上閉伊那土淵(つちぶち)村大字柏崎に名誉の老イタコあり。
    浜の方へ頼まれて口寄せに往きし時若者ども横槌を物陰に吊しおきて、イタコの術を妨げんとしたり。
    イタコ弓を取れども、さらに神の寄らぬゆえ、ア、これは誰か悪戯いたずらをしたなと、やがて口の中に呪文を唱えたれば、縁の下に匿れし若者二人たちまち死す云々。

    同氏また曰わく陸中東磐井(いわい)郡地方にてはイタコをオカミサマともいう。
    神がかりの折には、オシラサマの男体を左の手に、女体の方を右の手に持ち打ち振り打ち振り物語をする由云々。

     イタコの徒がオシラ神を奉祀することは『常陸国志』の説前に掲ぐるところのごとし。
    この神の形像並びにその由来に関する諸説は、卑著「石神問答(いしがみもんどう)』及び『遠野物語』にほぼこれをいえり。
     ‥‥‥
    北方においてはアイヌまたこれを信仰す。
    彼と我といずれが先なるかは、容易に決しがたき問題なり。
    『松前志』に曰わく蝦夷にはオオシラという神あり。
    その由来を知る者なし。
    桑の木尺の余なるにおぼろけに全体を彫れり。
    男女二神なり。
    信心の者(いの)ることありて乞えば、その木偶神を擁し来たり、さて願主より木綿の切きれを出さしめて、神体を包み左右に持ちて咒咀(じゅそ)す。
    その神巫女に掛りて吉凶を言うことなりと云々。

     イタコの語原に関する自分の仮定説は左のごとし。
    イタコはアイヌ語のイタクに出づるなるべし。
    バチェラー氏語彙によれば
      Itak = to say, acknowledge, to tell
    とあり。
    またその次には
      Itakbe = The stem of a spring bow
    とあり。
    イタクベの「ベ」は「ぺ」すなわち物の義なるべし。
    を名づけて(かた)りの物というはすなわち梓の弓と意同じ
    金田一京助氏は曰わくイタクはわが「言う」に該当すれども普通の談話には用いず。
    おそらくは荘重なる儀式の調を意味するならん。
    ユーカラなどの謡物の中に巫女が神意を告ぐるところには必ずイ()、イタキ (かくのごとく言えり) という語を用いたり云々。


Batchelor (1892), p.147



  • 引用文献
    • 柳田国男 (1911) :「「イタカ」および「サンカ」 (一)」, 人類学雑誌, 1911
      • 『柳田國男全集 4』, ちくま文庫, 1989.
      • 『サンカ──幻の漂泊民を探して』(シリーズ KAWADE 道の手帳), 河出書房新社, 2005. pp.136-153.
    • Batchelor, John (1892) : The Ainu of Japan
      • The Religious Tract Society, London. 1892.
      • archive.org